067254 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

ルームメイト 5

 貴史が声変わりをした頃、母はそれまで一緒だった子供部屋を別々にした。今にして思えば、それは当然すぎる措置だったと思う。いや、むしろもっと早く、私が初潮を迎えたときにそうしなかったことがおかしかったのだ。
 しかし、あの頃はそれがわからなかった。私たちは、初めて「反抗」した。
 深夜、父も母も寝静まった頃、私たちは相手の部屋へ忍び込んだ。たいていは、貴史が私の部屋へ来た。そして、一緒にベッドにもぐりこむのだった。
 幼い頃のように他愛のないおしゃべりをして、それに飽きると、おたがいの身体に腕を巻きつけて寝た。私は、貴史の頭を抱きしめるようにして眠るのが好きだった。貴史の髪からは、春のお日さまのような匂いがした。その匂いを胸いっぱいに吸い込んで、幸福な気持ちで眠りについた。
 貴史は、私の腰に腕をからめ、私の胸に耳を押し当てて眠るのが好きだった。私の心臓の音を聞きながら眠ると、安心できるのだと言っていた。
 私たちは、いつでも一緒がよかった。二人で真面目に語り合ったものだ。私たちは、本当は双子で生まれるべき運命だったのだと。それが、意地悪な両親のせいで二人の間に二年の差ができてしまった。だから今、その二年分の寂しさを埋めるために、こうして子宮の中にいる胎児のように、布団の中で二人抱きあっているのだと。
 しかし、仮の子宮で二人が抱きあっていられたのは、本当に二年だけだった。

 貴史が初めて彼女を作ったのは、貴史が高校一年、私が三年の夏のことだ。私たちは、同じ高校に進学していた。
 貴史の相手は、私の親友の彩子だった。美人で、性格もよい彼女。私の大好きな二人。私は心から二人を祝福した。
 しかし、その夜から貴史はもう私の部屋へはやってこなかった。私が貴史の部屋へ行っても、眠る時間にはやんわりと追い出された。もう、おたがい一緒に寝るべき年ではないことが、貴史にはわかったのだ。ベッドで共に眠るのは、姉ではなく、恋人であるべき女なのだという当然のことが。
 しかし、私にはしばらくそれがわからなかった。寂しさから母の酒を盗み飲みするようになったのは、この頃からだ。一人のベッドは広くて冷たくて、お酒の力を借りなければ眠りにつくこともできなかった。
 そのうち私にも彼ができた。相手はクラスメートの冴木という男だった。彼は、貴史と同じ写真部員でもあった。能天気と言ってもいいくらい明るくハイテンションな男で、私は自分にはない、その自然な明るさに惹かれた。お互いが知り合いということで、よく遊園地などでダブルデートをしたりした。
 二組の仲良し幸せカップル。でも、そんな幻想は長続きしなかった。
「だって、私は果南子じゃないもの!」
「俺は、貴史の代わり?」
 二人とも、同じようなセリフを投げつけて、私たちから去っていった。何が原因でそういう結果を迎えたのか、今となっては、もうはっきりと覚えてもいない。――たぶん、ほんの些細なことが、空から舞い落ちる雪のように、少しずつ私たちの上に積もっていったのだろう。ほとんど無意識のうちに、私は冴木に貴史の姿を、貴史は彩子に私の姿を投影させていたのだ。
――でも、実のところ、私はほっとしていたのかもしれない。おたがいの存在から巣立てない、変わることのできない私たちに。それが冴木と彩子を傷つけていたとわかっていても、私には貴史さえいればよかった。そのことだけは一生変わらないと思っていた。
 それなのに、私たちは変わってしまった。それも、あまりよくない方向に。

 三時五十分になって、そろそろナナコを起こさなければと思い始めた頃、彼女の部屋のドアが開いた。
「おはよー、果南ちゃん」
 アルコールはまったく残っていないらしい、爽やかな笑顔で、ナナコは真っ直ぐ洗面所に入っていった。顔を洗い、歯を磨いてでてきた彼女は、もう外行き用の顔になっている。
「それじゃ、バイト行ってくるね」
「うん。がんばってね」
 ドアがばたんと閉まり、私は、また一人になった。
 それにしても、ナナコはなんのバイトをしているのだろう。服装はジーンズにカットソーだから、事務系の仕事ではないだろう。化粧もほとんどしてないようだから、お水関係の仕事でもなさそうだ。
 ナナコは、ほとんど自分のことを語らない。今までは、顔をあわせれば、いやあわさなくても電話で自分のことばかり話したがる友達がほとんどだった。あえて、そういうタイプの友達ばかりを選んでいたのかもしれない。自分の家庭のことを話すぐらいなら、相手の毒にも薬にもならないおしゃべりにつきあうほうが、よっぽど楽だった。だから、ナナコのように、私のことを何でも話してしまいたくなるタイプの友達は初めてだった。
 そして、そんなナナコだから、一緒に暮らしたいと思ったのかもしれない。独りになるのは嫌だったけど、そばにいるのが誰でもよかったわけじゃないのだ。

 たまっていたシンクの洗い物をようやく片づけた頃には、もう五時を過ぎていて、そろそろ夕飯のことを考えなければならない時間だった。
 作るのは、考えただけでも面倒だった。第一、冷蔵庫には材料が何もない。
 しかし、一人で外食するのもなんだかわびしすぎる。友達のほとんどはすでに結婚していて、夫や子供を放り出して私の夕食につきあってくれる人はいなかった。それに、しばらく外食が続いていたので、財布のほうもあまり保ちそうにない。考えた末、私は米を研ぎ、炊飯器をセットして大通のデパートまで行くことにした。地下の食品売場で、何かおいしそうな惣菜を見繕うことにしよう。
 軽く化粧をすると、私はまたリュックをつかんで外に出た。

 土曜日の夕方、地下鉄の改札口は人であふれていた。地下街入り口そばの大型テレビの付近には、携帯を持った若い人たちが何人も座り込んでいる。そういう人たちをしっかり横目で見ておきながら、何も目に入らないかのように私は真っ直ぐデパートの入り口に向かって歩いていった。
 焼き鳥やサラダなどを買おうか、それとも惣菜バイキングにしようか考えながらぶらぶらと地下一階を歩き回っていると、見覚えのあるネクタイが目の前に現れた。
 顔を上げてみると、目の前にいたのは北嶋だった。
「よう」
「……なんか、見覚えのあるネクタイだと思った」
 私が、北嶋の誕生日にあげたネクタイだった。
 化粧してきてよかった、と思った。好きな人に美しく見てもらいたい、なんてしおらしい考えではない。見栄だ。捨てられてやつれた惨めな愛人、とは見られたくない。そう思うと、服が気にかかった。いっそブランド物のスーツでも着てくればよかった。ユニクロのシャツじゃなくて。
「買い物?」
「うん。北嶋さんも?」
「ああ。……カミさんが同窓会で、晩飯ないから」
 そう言って、彼は惣菜の入ったビニール袋を見せた。私は、何となく笑ってしまった。
「ところで、元気だった?」
 北嶋は、私の目をのぞき込むように見ながら、おだやかな声で言った。
 ダメだ、と思った。また、ずるずるしてしまう。



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